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大津地方裁判所 昭和57年(ワ)114号 判決 1987年5月18日

原告

谷本大

右法定代理人親権者父

谷本信一

同母

谷本道子

右訴訟代理人弁護士

野村裕

木村靖

吉原稔

被告

山添昭二

右訴訟代理人弁護士

中坊公平

谷澤忠彦

島田和俊

岡田勇

主文

一  被告は、原告に対し、金二、七一八万七、六三四円及びこれに対する昭和五七年四月二二日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の、その余を原告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し金五、三二一万五、五七八円及びこれに対する昭和五七年四月二二日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 被告は、医師であり、昭和三七年より昭和五五年八月まで、山添医院(以下「被告医院」という。)の名称で、産科・婦人科の医院を開業していた者である。

(二) 原告は、父谷本信一、母谷本道子(以下「信一」「道子」という。)の子であり、昭和五五年八月一二日午後一時四〇分被告医院で出生した者である。

2  事実関係

(一) 原告の出生予定日は昭和五五年八月一四日であったが、被告は、同月一七日から香港へ出かけるため同月一一日より原告の分娩を誘発し、そのため、原告は右予定日より早く出生した。また、原告は、右の被告の都合から、同月一六日午後一時三〇分被告医院を退院することとなった。

(二) 原告は、右出生時には何らの異常もなかったが、生後四日めの八月一五日に黄疸が発現した。そして翌一六日もそれが継続したが、その原因に関する検査は全くされることがなく、退院時にも、「明日、明後日と様子をみて黄疸が強くなるようなら日赤病院に行くように」という話だけで、血液型不適合に関する話は何らないまま退院することになった。

(三) 原告は、退院当日の夜から、母乳の哺乳力が低下して嗜眠状態が発症し、核黄疸に関するプラーハの分類の第一期症状(以下単に「第一期症状」という。)を呈するに至った。そして、翌一七日には右嗜眠状態はより増強し、午後六時ごろからは硬直症状が発現するに至った。

(四) そこで、被告医院小谷助産婦の来宅を頼み、同助産婦は同日午後七時ごろから約一時間半原告宅にいて、原告の様子を見た。その時の原告の症状は、同人が原告に触れると一言「ギャー」と泣く、五〇シーシーのミルクを無理矢理飲ませるのに五〇分かかるという状態であった。しかるに、同助産婦は、「心配ない」と言うのみで、具体的対処なく帰った。

(五) さらに、翌一八日午前六時ごろになり、原告は全く母乳を吸わず、けいれんを発現したため、大津日赤病院で受診したが、入院前の同病院竹下小児科部長の診断は「異常」の一言であり、同日、同病院に入院した。入院時の原告の体重は二、九〇〇グラムと被告医院退院時の三、〇五〇グラムから減少しており、入院直後の血清ビリルビン値(以下「ビ値」という。)は二六(単位は一デシリットル当りミリグラム。以下、単位を省略する。)であって、既に第二期症状に入っていて「手遅れ」とのことであった。

(六) 原告は、同月一八日、一九日の二度交換輸血を受けたが、結局脳性マヒの後遺症を残すことになった。

(七) 原告の核黄疸の原因は、AO血液型不適合による新生児溶血性疾患である。仮にそうでなくとも、新生児特発性高ビリルビン血症である。

3  責任原因

(一)(1) 原告の父信一、母道子は、原告の法定代理人として、昭和五五年八月一二日、原告の出生の際、被告との間に、原告の心身に異常があれば被告に診療を依頼する旨の診療契約を締結した。

(2) 原告については、母の血液型がO型、原告のそれがA型であり、八月一六日には既に黄疸が発現してそれが軽減しないままの状態であったから、被告は原告の血液型不適合による核黄疸の発症及び脳性マヒの発現を十分に予測できた。従って、被告には、その都合で原告の診療を継続できないのであれば、早期に検査及び交換輸血設備、技術の完備した医療機関に転医させるべき右診療契約上の義務があった。しかるに、被告は、不十分な検査しかなしえないイクテロメーターで測定したのみで、黄疸症状の継続している原告を生後四日目という早期に漫然と退院させた。そのため、原告は前記のとおり、治療の遅れによる脳性マヒという後遺症を残すに至った。これは、右診療契約の債務不履行に当る。

(二) 被告の従業員である前記小谷は、前記のとおり八月一七日夜に原告の様子をみたものであるが、その際、原告に黄疸、哺乳力減退、嗜眠、後弓反張という第一期症状及び第二期症状に該当する症状を認め、かつ、医師である被告が当日から海外へ出発し不在であったから、直ちに原告を血液検査及び交換輸血設備、技術の完備した小児科医療機関で診察を受けさせる措置をとる必要があったにも拘わらず、これを怠り、何らの措置もとらなかった。従って、被告は、右小谷の行為について、右診療契約の債務不履行責任を負うとともに、同人に対する選任、監督上の過失による不法行為責任も負うものである。

(三) なお、右はいずれも、原告の核黄疸の原因が、新生児溶血性疾患であるか特発生高ビリルビン血症であるかによっては、何ら異なるところがない。

4  損害

(一) 原告は、昭和五五年九月八日大津日赤病院を退院した。その後、第一びわこ学園、大津市民病院にて治療を受けているが、特に大津市民病院では、昭和五五年九月より翌昭和五六年四月ごろまではほぼ毎日、現在では週一回の理学療法を受けている。そして、この通院治療以外にも、道子から家庭内で毎日訓練がなされている。

(二) 原告の後遺症は、脳性マヒであるところ、原告は、少なくとも神経系統の機能又は精神に著しい障害を残しており、将来においても特に軽易な労務以外の労務に服することができない状態にある。

(三) 逸失利益

原告は、満一九歳から満六七歳までの四八年間稼働が可能であるが、被告の右債務不履行により、大津日赤病院退院時である昭和五五年九月八日には既に右のとおりの後遺障害を負うに至った。右による労働能力喪失率は少なくとも七九パーセントである。そこで、昭和五五年賃金センサス企業規模計、産業計、男子労働者学歴計、平均年間給与額三四〇万八、八〇〇円を基礎にして原告の逸失利益を計算すると、

3,408,800(円)×0.79×16.419

=44,215,578(円)

(〇歳の将来の逸失利益のホフマン係数 16.419)

となる。

(四) 慰謝料

前記の原告の後遺障害に対する慰謝料としては、九〇〇万円が相当である。

(五) 従って、原告の損害額は合計五、三二一万五、五七八円となる。

よって、原告は、被告に対し、債務不履行または不法行為に基づき、金五、三二一万五、五七八円の損害賠償金、及び、これに対する訴状送達の翌日である昭和五七年四月二二日から支払いずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実はいずれも認める。

2  請求原因2(一)の事実のうち、被告が原告の分娩を誘発した理由及び原告が退院した理由が、被告が香港へ出かけるためであったことは否認するが、その余の事実は認める。原告の退院時刻は午後二時三〇分ごろである。

(二) 同2(二)の事実のうち、原告が出生時に何らの異常もなかったことは認める。原告の退院時に黄疸があったことも認めるが、それは生理的黄疸である。黄疸発症の原因に関する検査をしなかったこと、退院時に血液型不適合についての話がなかったことは否認する。

(三) 同2(三)の事実は否認する。

(四) 同2(四)の事実のうち、小谷が八月一七日に原告の様子を見たことは認めるが、小谷の来宅を頼んだこと、小谷が具体的対処なく帰ったことは否認する。

(五) 同2(五)の事実のうち、原告が八月一八日に大津日赤病院に入院したこと、当時の体重が二、九〇〇グラムであり、ビ値が二六であったことは認めるが、原告主張の症状があったこと、診断が「異常」の一言であったこと、原告が手遅れであったことは否認する。

(六) 同2(六)の事実のうち、原告が二度交換輸血をうけたことは認めるが「手遅れのため脳性マヒに陥った」との点は争う。

3  請求原因3(一)(1)の事実は認める。

三  被告の主張

1  事実関係

(一) 原告の出生までの経過

(1) 道子は昭和五五年一月一三日午前八時ごろ、腹痛を訴え、被告の診察を受けた結果、妊娠反応があったが、その時の所見から流産の可能性があったので、安静と経過観察を指示して一旦帰宅させた。しかし、同日午後五時ごろ、道子は再び腹痛を訴えたため、被告は卵巣の軸捻転の疑いを抱き、道子に対し、大津市民病院で受診するよう指示した。道子は同病院において、卵巣の軸捻転と診断され、同月一四日開腹手術を受けた。

(2) その後、道子は特に異常なく推移し、七月二八日より子宮口が開大しはじめ、八月八日には二横指開大するに至った。被告は、道子が右開腹手術を受けているため、胎児が巨大化すると開腹部位が怒積によって離解して通常分娩ができず、帝王切開術の施行を余儀なくされることを慮り、分娩予定日は八月一四日であったが、胎児の発育が十分であり、かつ子宮口も開大し分娩しうる状態となっているので、道子の了解を得て早期に胎児を娩出する方針を決定した。

(3) 八月一一日、道子の子宮口が二横指開大し、軟らかいことを確認のうえ、午前九時三〇分より一時間毎に四回にわたって、それぞれアトニンO(陣痛促進剤)一単位を筋肉注射して分娩を促進した。道子は八月一二日未明から破水して陣痛が認められ、同日午後一時四〇分原告を娩出した。出生当時、原告の体重は、三、二〇〇グラム、身長五〇センチメートル、頭囲32.5センチメートル、腹囲32.5センチメートルで何らの異常の認められない成熟児であった。

(二) 原告の出生後退院までの経過

(1) 原告は出生当日(生後一日目)は何らの異常はなかった。翌一三日授乳を開始したが、哺乳力は十分あり、一般状態も良好で、異常は認められなかった。翌一四日も同様に一般状態は良好で、哺乳力も十分あり、この日までは黄疸は認められなかった。原告の体重は、生理的体重減少により一三日には二、九五〇グラムと一旦減少したものの、一四日には三、〇〇〇グラムと上昇に転じた。

(2) 八月一五日(生後四日目)、原告に初めて黄疸が認められ、イクテロメーターで測定したところ、黄疸はイクテロメーター値(以下「イ値」という。)で2.5、ビ値にしてほぼ7.5と軽度であり、後記のとおり、被告は生理的黄疸と判断した。同日はこれを除き、原告の一般状態、哺乳力ともに前日同様良好であった。

(3) 翌一六日(生後五日目)も、原告の一般状態、哺乳力ともに良好であり、何らの異常は認められなかったのみならず、体重も五〇グラム増加し、三、〇五〇グラムとなった。被告は、ガスリー検査を行うため、原告の採血を行ったが、その採血前及び採血後の二回、イクテロメーターによって黄疸を測定するもイ値は2.5であり黄疸の増強は認められなかった。さらに、被告は原告の退院直前にも黄疸を測定したが、イ値は2.5と変わらず、黄疸の増強は認められなかった。

(4) 被告は、原告に認められた黄疸が、生後四日目に発現したものであり、しかもイ値2.5(ビ値7.5)にすぎず、成熟児のビ値の限界とされる一二を下回っており、成熟児にとっては極めて軽微な黄疸であり、かつ黄疸の増強が認められなかったため、生理的黄疸と判断し、さらに、原告の一般状態、哺乳力ともに良好であり、体重も増加していること、核黄疸の発症を疑わせるに足る臨床症状、その他何らの異常の認められないことを総合判断して、右同日原告の退院を決定した。

(三) 退院後の状況

(1) 翌八月一七日午後七時ごろ、原告の家族より被告医院の谷口助産婦に対し、原告の元気がない旨の連絡があり、同助産婦は直ちに大津日赤病院で受診するよう勧めたが、信一夫婦は「親戚の者が救急車であちこちふり回され、大変困ったことがある」との理由でこれを拒否した。そこで、被告医院の小谷助産婦が、谷口助産婦からの連絡を受けて同日午後八時ごろ原告方を訪問したところ、道子は「原告が午前一〇時ごろから泣かなくなり、その後母乳も飲まなくなった」と説明した。

(2) 小谷助産婦がみたところ、原告は四肢運動は認められなかったものの、黄疸は前日と同程度であって、特に増強しておらず、発熱はなく、脈拍の博動は確かであり、また、同助産婦がミルクを飲ませたところ、五〇シーシーを飲みほした。この時には、原告に嗜眠状態や硬直症状はみられなかった。同助産婦は、道子に対し、当夜病院へ連れていくのがどうしてもいやであれば、翌日必ず病院へ連れていくよう再度指示して帰宅した。

(3) 原告は、翌一八日午前、大津日赤病院で受診したところ、総ビ値23.4で核黄疸の第二期症状であり、交換輸血の適応時期であると診断されて、同日夕刻及び翌一九日の二回にわたって交換輸血を受けたものである。

2  核黄疸について

(一) 核黄疸の発症機序と発生原因

(1) 核黄疸は、間接ビリルビン(体内の赤血球が崩壊ないし死滅する際に遊離されるヘモグロビンの代謝産物とみなすべき黄色の物質で、通常の場合、肝臓に吸収され、一定の処理を経て、水溶性の直接ビリルビンとなり、胆汁中に分泌される。)が、主として大脳基底核等の中枢神経細胞に付着して黄染した状態をいい、神経細胞の代謝を阻害して死亡するか、救命しえても不可逆的な脳損傷を惹起する疾患である。

(2) その発生原因としては、血液型不適合による新生児溶血性疾患と、一般に特発性高ビリルビン血症または新生児高ビリルビン血症といわれるものとがあると考えられており、前者は、不適合妊娠、すなわち胎児の赤血球が母体を免疫する可能性のある血液型の組合せ(Rh不適合の場合とABO不適合の場合がある)での妊娠により、胎児の赤血球が胎盤を通して母体に移行し、母体内で胎児の赤血球に対する免疫抗体が得られると、これが逆に胎児に移行して抗原抗体反応により胎児の赤血球を溶血し、間接ビリルビンを胎児血中に大量に放出させる疾患であり、後者は血液型不適合とは無関係に高ビリルビン血症を呈するものである。

(3) 核黄疸発生の最大要因が血液中の間接ビリルビンの増加であることは異論のないところであるが、いずれの原因に起因するものであるかを断定することは困難である。また、核黄疸発生を助長する因子として、肝機能低下、低血糖、ビタミンK、サルファ剤等の薬物投与、血清蛋白濃度、感染等も指摘されており、核黄疸のすべてについて解明されているものでもない。

(二) 黄疸の発現時期

(1) 黄疸の発現時期は、その発生原因によって異なり、新生児溶血性疾患の場合は、一般に二四時間以内に黄疸が出現し(早発黄疸)、急速に増強して生後二、三日目にピークに達するのに対し、生理的黄疸及び特発性高ビリルビン血症の場合は、黄疸の出現が遅れ、生後二ないし四日目ごろに発現し、五日目ごろにピークに達するといわれているが、その区別は必ずしも容易ではない。

(2) これを原告についてみるに、前記のとおり、原告には、生後一ないし三日目には黄疸は発現していないのであるから、新生児溶血性疾患でないことは明白である。他方、原告は、生後四日目に黄疸が発現し、生後五日目にも黄疸値に変動がなかったのであるから、生理的黄疸または特発性高ビリルビン血症の黄疸の発現パターンと合致している。

(3) なお、ビ値の限界は、成熟児では一二といわれており、原告はイ値2.5、すなわち、ビ値7.5であるから、生理的黄疸の範囲内といえる。

(4) しかしながら、生理的黄疸、特発性高ビリルビン血症のいずれであるにせよ、黄疸のピークは生後四ないし五日目ごろであり、その後消退していくのであるから、原告に認められた黄疸値が上限であるというべきである。

(三) 核黄疸の発生頻度

ABO不適合妊娠のうち、母O型、子A型の不適合群は32.22パーセントといわれているが、母児間の血液不適合群の全例が新生児溶血性疾患に罹患するものではなく、右の組合せから生まれる子がこれに罹患する頻度は約0.24パーセントといわれている。他方、特高性高ビリルビン血症は、未熟児に認められることが多く、成熟児が罹患することは非常に少ないといわれている。

(四) 核黄疸の臨床症状

プラーハは、核黄疸の臨床症状をその程度によって以下の四期に分類し、最も簡明なものとして一般に認められているが、核黄疸のすべてに左記症状が発現するものではない。また、臨床症状の発現時期は、新生児溶血性疾患の場合が早く、突発性高ビリルビン血症の場合は遅いといわれているが、必ずしも明確ではない。

第一期 筋緊張の低下、嗜眠、哺乳力減退、不元気

第二期 筋硬直、発熱

第三期 けいれん、筋硬直の減退

第四期 恒久的な脳中枢神経症状の発現

3  被告の過失について

(一) 被告は、前記のとおり、原告の臨床経過を仔細に観察し、退院を決定したものであり、その判断は医学的に相当であって、被告に過失はない。

(二) のみならず、被告は、原告退院の際、さらに信一、道子夫婦に対して、詳細な説明、指導を行った。すなわち、原告の退院時点においては、その黄疸が増強することは考えられなかったものの、後記の理由から、被告が香港へ出かけざるを得ず、その間、感染症等の原因により黄疸が増強し、重症黄疸となる可能性の存すること等を慮り、原告の退院に先立ち、信一夫婦に対し、「黄疸が強くなったとき、ミルクを飲まなくなったとき、発熱したとき、その他、原告につき何らかの異常所見が認められた場合には、直ちに医師の診察を受けること、被告は大津日赤病院の竹下医師と懇意であり、何時にても診察して貰えるよう手配している」ことを十分説明し、信一夫婦もこれを了承して退院したものである。被告は、口頭をもって右事情を説明、指導しただけでなく、念の為、診察室において、信一夫婦を立会わせたうえ、イクテロメーターをもって原告の黄疸を測定し、イ値が2.5であることを現認させ、「同時点に認められるのと同程度の黄疸であれば全く問題はないが、これ以上黄疸が強くなった場合には、直ちに医師の診察を受ける必要がある」旨の説明、指導をも行った。

(三) 被告の香港行きについて

(1) 被告は昭和三一年急性肝炎に罹患し、入院加療を受け、一旦治癒したものの、昭和四九年に再発、入院するという既往歴を有していたものであるところ、昭和五五年三月ごろより、肝炎を再発、症状が悪化し、加療を続けていたものである。ところで、慢性肝炎には、漢方薬である「片仔廣」が特効性を有するものであるところ、日本では偽物しか存せず、真物は香港に行かなければ入手できないため、止むなく八月一七日より香港へ出かけたというのが真相である。この当時、被告の症状は極めて重篤であり、同人自身が持参した点滴を施行しながらの香港行きであった。

(2) ところで、被告自身が香港行きの航空券を入手したのは八月一三日であり、従って、八月一二日の時点では未だ香港行きのスケジュールは決定していなかったし、被告医院においては、八月一六日当時、「同月一四日に女児を分娩、二〇日退院した者」及び「同月一六日男児を分娩、二一日退院した者」の両名が入院中であった。

(3) 従って、被告が香港へ行くことを理由として、原告母子を早期に退院させる必要もなければ、退院させたものでもなく、あくまで、原告を退院させてもよいという判断に基づくものであった。

(四) また、前記1(三)(1)及び(2)のとおり、道子らは、八月一七日に被告医院助産婦らが病院での受診を勧めたにもかかわらず、これを拒否して原告を放置したものである。

4  交換輸血の適応時期について

(一) 成熟児に認められる特発性高ビリルビン血症における交換輸血の適応は、従来間接ビリルビン値二〇ないし二四で行うこととされてきた。その後の研究により、黄疸以外に異常がない場合には間接ビ値二八ないし三〇、合併症がある場合には二〇ないし二四を基準とする説、黄疸以外には正常な場合には三〇以上、合併症があれば二七を基準とする説が唱えられている。

(二) これを本件についていえば、一八日午前、原告が大津日赤で受診した際の間接ビ値は21.4であったから、後弓反張の症状が認められたことを勘案しても、まさに交換輸血の適応時期があったとはいえても、「既に手遅れ」でないことは自明である。

(三) さらに、交換輸血術は、手術のための準備に要する時間が二時間位といわれており、従って、八月一八日午前一〇ないし一一時ごろには、交換輸血術が可能であったものである。しかるに、大津日赤における手術開始は六時間以上も経過した午後五時五〇分である。その理由は明らかではないが、これが、交換輸血のための血液獲得のために要したものであるならば、同日午前の受診時には、原告は、未だ間接ビ値が21.4と低く、かつ、寸秒を争う緊急手術を必要とする程の明確な臨床症状はなかったものというべきである。仮に、緊急手術が必要であれば、自然血を確保するまでもなく、合成血を使用して交換輸血を行うことが必要不可欠であり、同日には、八月一四日製造の合成血が何時にても使用することが可能であったのであるから、即時交換輸血を実施しえたはずである。従って、右状況下において、八月一八日午前中に緊急手術が行われなかったことは、まさに、原告は、当時、交換輸血の適応時期にあり、緊急に手術を必要とする程症状が進行していなかったことを示している。

(四) よって、原告の手遅れとの主張は理由がないし、原告に対する交換輸血が、このように適応時期に履践されたものである以上、これが奏功するか否かは別問題であり、奏功しなかったからといって、被告が責任を問われるべき理由は存しない。

第三  証拠<省略>

理由

一1  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

2  請求原因2の事実のうち原告の出生予定日が昭和五五年八月一四日であったこと、被告が同月一一日から原告の分娩を誘導し、原告が予定日より早く出生したこと、原告が同月一六日被告医院を退院したこと、原告の出生時には異常がなかったが、退院時には黄疸があったこと、同月一七日に小谷助産婦が原告の様子を見たこと、原告が同月一八日に大津日赤病院に入院したこと、当時の原告の体重が二、九〇〇グラムであり、ビ値が二六であったこと、原告が同病院において二度交換輸血を受けたこと、の各事実も当事者間に争いがない。

二<証拠>によれば、以下の各事実を認めることができ、乙第一号証、証人谷口、同小谷の各証言、被告本人尋問の結果中これに反する部分は措信し難く(その理由は後記のとおり。)、他にこれを覆すに足る証拠はない。

1  道子は昭和五五年一月一三日、前日から右下腹痛があったため被告医院で受診したところ、妊娠反応があり、被告は流産を疑って安静を指示した。しかし、その後も痛みがとれないので、同日午後五時ごろ、道子は再度被告医院で受診した。被告は、道子に出血がなかったことから、子宮外妊娠、軸捻転、卵巣のう腫を疑い、開腹手術の必要があるので市民病院で受診するように指示し、その結果、道子は卵巣の軸捻転と診断され、同病院で開腹手術を受けた。

2  その後、道子は継続して被告医院で受診していたが、被告は、同年八月一七日から香港に出かけるため、道子の分娩を早期に誘導して出産させ、八月一六日までに退院させようとして、八月九日に道子が被告方医院で受診した際、「標準体重あるので生みましょう。」と話し、道子は、本来はお盆すぎの出産を希望していたが、被告の言に従って、同月一一日午前九時三〇分から陣痛促進剤アトニンOの投与を四回受け、翌一二日午後にも二回(〇時と〇時四〇分)の投与を受け、同日午後一時四〇分原告を出産した。出生当時、原告は体重三、二〇〇グラム、身長五〇センチメートル、頭囲32.5センチメートル、胸囲32.5センチメートルであった。

3  当日、道子は原告について特に気付いたことはなかったが、夜になって信一の姉夫婦と妹夫婦が見舞いに来た時に、妹の夫が、原告の鼻の頭にぶつぶつが出来ているのを見て、何かと尋ねたのに対して、姉が、赤ん坊の黄疸で誰にでもできるものだと説明したというやりとりがあった。

4  道子は、八月一三日から原告の授乳を始めたが、長男に比べて原告の母乳の吸いが弱いとの印象を受けていたものの、哺乳びんのミルクはよく飲み、泣き声も大きかったので、特に心配するということはしなかった。

5  道子は、八月一四日ごろ、谷口助産婦から、被告が一七日から旅行に行くので一六日に退院することになった旨告げられた。

6  八月一六日、退院に先立って、まず、被告医院の助産婦が原告を病室から診察室に連れて行き、被告がガスリー検査のための採血を行った。そして、道子も一〇分か二〇分遅れて診察室に行ったところ、被告は原告の鼻にイクテロメーター(介排式のもの)を当てており、さらに原告を診察室の机の上に連れてきて、その場でもイクテロメーターを当て、道子に、「黄疸が強くなるようなら小児科に連れて行くように、近くの開業医ではだめだから、日赤病院に行くように、まだ黄色くなるから、明日、明後日と白目を見て、今より黄色くなるようなら病院に行くように」との話をした。しかし、被告は、原告のその後の診察を他の医師に依頼することはしていない。

7  そして、同日午後一時三〇分ごろ、道子と原告は被告方医院を退院したが、その後、石山団地の自宅までの帰宅途中、信一の運転する車中で、道子は原告を見て、随分黄色いことに気付き、信一に「原告が黄色い」との話をした。

8  当日から翌一七日午前一〇時ごろまで、道子は二、三時間おきに原告に授乳していたが、一六日夜には、道子が原告を抱いていても、原告が何かくたびれて、だらっとしているという感じを持つようになった。

9  八月一七日午前一〇時ごろの授乳後、原告は同日午後四時ごろまでずっと寝続け、目を覚したので授乳しようとしても、五分も吸わずにとろとろと寝てしまう状態であり、午後六時ごろには、手足はだらりとしているのに、首が斜めになってきて硬くなり、おむつを替えたり抱いたりする時に一声「ギヤッ」と泣くだけという状態になった。

10  同日午後六時前ごろ、道子が、電話で同人の父親に原告の様子がおかしいと訴えたところ、道子の両親から被告方医院にいた谷口助産婦に電話し同助産婦から小谷助産婦に電話して、同助産婦が原告宅に行くことになり、同助産婦は午後七時すぎごろ原告方を訪れた。同助産婦は、最初、原告の脈拍、体温、呼吸をみたが、これらには異常がなかった。しかし、原告の首が固くなって、触っても「ギャ」としか泣かないのを見て、「おかしいね、日赤に預ってもらったら安心だ」等と言いながら、大津日赤病院に電話したが、電話がつながらなかった。そこで、同助産婦は原告にミルクを飲ませようとしたが、なかなか飲まないので、哺乳びんを振ったり、頬をつついたりして、約五〇分かかって、ようやく五〇シーシーのミルクを飲ませた。その間、同助産婦は、原告がミルクを飲むのに五〇分かかったことをおかしいとは言ったが、もっぱら、「黄疸が大変な子供はいないから心配ない、一刻を争うような状態ではない」と言っていて、道子らに病院に行くことを勧めることはしなかったので、道子らも原告を病院に連れていかなかった。

11  当日夜から、翌一八日朝にかけて、道子は原告をほとんど抱いたままで、原告が泣いたら母乳を含ませるということを何回か繰返したが、原告は、母乳を少し吸うだけで、すぐに寝てしまう状態であった。

12  八月一八日午前九時すぎに、原告は大津日赤病院で、同病院竹下茂夫医師の診察を受けたが、その時の所見は黄疸著明、後弓反張+、嘔吐なしで、交換輸血の必要があるとして直ちに入院することになった。さらに、同日午前一〇時すぎごろ、原告は伊吹良恵医師に入院時の予診を受けたが、その時の所見は、皮膚汚黄色、筋肉は緊張が弱く固い、脱水症状少し、啼泣は時々みるのみで易刺激性、眼球結膜黄疸色、両上肢挙上位、手は握りしめたまま、下肢伸展位、等であり、遠心分離式のイクテロメーターで計測したビ値は二六、血液学的検査による総ビ値23.4、直接ビ値2.0(従って、間接ビ値21.4)であった。また、直接、間接クームステストの結果は、いずれも陰性であった。

13  伊吹医師は、原告の黄疸が生後日数が経って発現していることから、一応特発性高ビリルビン血症と考え、原告の両親らにA型の供血者六人を集めるよう指示するとともに、午前一〇時四〇分ごろから、輸液、投薬、光線療法を開始した。その後、供血者四人が来院したが、その血液と、原告の血液との間の交差試験で、すべて主反応陽性の結果となり、いずれの血液も使えなかったため、同医師はAO血液型不適合による溶血性疾患であると判断して、交換輸血を合成血によって行うことにし、血液センターに合成血(O型のヒト血液の赤血球にAB型のヒト血液の血漿を加えたもの)を発注し、その到着を待って、午後五時五〇分から交換輸血を施行した。

14  しかし、その後も後弓反張、黄疸が続き、ビ値も二〇前後と低下しなかったため、八月一九日、再度交換輸血を施行し、その結果、二〇日ないし二二日にかけて、ようやく原告のビ値、後弓反張等が少しずつ改善した。

三前示の事実経過のうち、特に争いのある、①被告が道子の分娩を早期に誘導した理由、②原告の入院中の経過、③被告の退院時の説明内容、④八月一七日の原告の状態、の各事実についてさらに検討する。

1  最初に、被告の主張の根拠たる被告作成の診療録(乙第一号証)について検討するに、たしかに、同号証には被告の主張に添う記載がなされているが、

(一)  まず、三枚めの「診療票」と題する部分については、

(1) 日付の月が、一二月から八月に訂正されているとみられるところ、これがその当時に作成されたものであれば、そのような誤記は通常考えられないこと、

(2) 同票は、被告本人尋問の結果からしても、また、その形式及び記載事項からしても、入院時の予診の結果を記載するものと認められるところ、原告親権者道子尋問(以下「道子尋問」という。)及び被告本人尋問の各結果によって認められる、道子の分娩を早期に誘導する方針は既に八月九日の時点で決定しており、八月一一日には、その方針に従って道子の分娩の誘導を開始するために同人を入院させた事実に照らすと、八月一一日の段階で、分娩と直接関係しない月経についての予診をとることには余り意味がないというべきであるし、被告が既に知悉している軸捻転の既往症及び腹壁の手術痕についてあらためて記載し、さらに「少し早いめに分娩誘導すること」と、あたかも将来にわたる指示事項のような記載をすることは、右と相容れないものがあるといわざるをえないこと、

(3) 道子尋問の結果によれば、道子の兄弟は姉五人、信一の兄弟は姉と妹であり、「同胞姉一」の記載は明らかに誤っていること、

(二)  四枚めの入院中の所見、処置等が記載されている部分をみるに、

(1) 同票は、全体として一行分の欄に一行ずつ記載されているが、原告の黄疸に関する八月一三日の「児黄疸認めず」、八月一五日の「児イクテロメーター2.5、皮膚やや黄色」の各記載に限っては、いずれも一行分の欄に二行記載されていること、

(2) 右のうち、八月一三日の記載は、「子宮出血量普通」(同日の記載の一行目)と「子宮収縮良好」(同三行目、訳文の位置は誤り)「子宮底臍下二横指」(同四行目)の間にあって、母親に関する所見の間に挿入されていること、

(3) 同様に、八月一五日の記載は、同日の記載の一行めに「特記すべきことなし」(M.b)とありながら、その下にこれが特記されていること、

(4) 同票のうち、八月一六日以外の記載は、極めて簡単な、単語のみのメモ程度の記載であるのに対し、同日に限ってのみ、日本語による詳細な文章体の記述であって、しかも「AO型不適合」との記載があるところ、被告主張のように、原告の黄疸が生理的黄疸であって、原告の一般状態を考慮して退院させても差支えないものと判断したのであれば、原告の一般状態についての記載や生理的黄疸との診断の記載がないのに、黄疸に関する注意についてのみ、このような詳細な記述を診療録に残すことは不自然であり、また、「AO型不適合」との記載も、同診療録のどこにも原告の血液型を検査した記録がないことと符合せず、被告の生理的黄疸の主張とも矛盾しているといわなければならないこと、

(三)  また、同診療録を原本により検討するに、

(1) 二枚めの裏面と三枚め表面の右上の糊付け部分に、別の紙をはぎ取った痕跡とはぎ取られた紙片の一部が存在すること、

(2) 四枚め表面の糊付け部分で、三枚めの用紙より上に出た部分の左半分に、糊付けをはがした痕跡がみられるところ、これに対応する糊付けをはがされた部分が見当らないこと、

(3) 三枚めの用紙の下辺は直線でなく、はさみ等で切断したようになっており、左辺にもナイフによる明らかな切断痕がみられること、

等、その三枚め以降には、特に本件の争点と関係する部分に不自然な点が多々見受けられ、被告が、自己の主張に添うように追記、改ざんした疑いがあり、少なくとも、八月一一日以降の記載については、本件の争点につき被告の主張あるいは被告本人尋問の結果を裏付けるだけの価値を有しないといわなければならない。

2  そこで、前記①の被告が道子の分娩を早期に誘導した理由についてみるに、

(一)  被告本人尋問の結果中には、被告の主張1(一)(2)に添う部分があるが、

(1) 前示のとおり、被告作成の診療録は、右の裏付けとなしえず、右本人尋問の結果は、十分な裏付けを欠いていること、

(2) 被告本人尋問の結果中には、「道子を放置しておけば胎児が大きくなりすぎて怒積による解離の恐れがあった」「胎児が四キログラムや五キログラムになるまで放っておく医者がいるがそれは医者の責任だ」と述べる部分があるが、前示のとおり、道子の出産予定日は分娩の誘導を開始した八月一一日からわずか三日後の八月一四日であり、しかも、乙第一号証及び被告本人尋問の結果によって認められる八月九日には道子の子宮口が二横指開大していた事実からすれば、道子は予定日前後には分娩を誘導しなくとも分娩が可能であったと思料され、それまでに胎児の体重が四キログラムを超える程まで増加するとは到底考えられないこと、

の各事情からすれば、前記の被告本人尋問の結果は、にわかには措信し難い。

(二)  これに対し、道子尋問の結果中には、八月一四日ごろ、谷口助産婦から「被告が外国に行くので一六日に退院できてよかった、もう少し産むのが遅かったら被告が帰ってからでないと退院できない」と言われたとの部分があるところ、同尋問の結果については、特段不自然、不合理なところもなく、またその内容においても、被告本人尋問の結果、証人小谷の証言及び弁論の全趣旨によって認められる、被告医院で一六日以前に出生して二〇日以降に退院した新生児二名がいる事実と符合していることからして、右尋問の結果は十分に信用できるというべきであって、これに添う事実を認めることができる。

(三)  右事実からすれば、被告が道子の分娩を誘導して、原告を八月一一日に出生させた理由は、被告が香港に行くことにあったと推認するのが相当である。

3  次に前記②の原告の入院中の経過について検討するに、

(一) 被告は、原告の黄疸は八月一五日に初めてイ値2.5と認められ、翌一六日の退院時にもイ値二ないし2.5であったと主張し、被告本人尋問の結果中にもこれに添う部分があるが、右に添う乙第一号証の記載を信用することができないことは前示のとおりであって、右は裏付けを欠いているばかりでなく、前示二6ないし9のとおり、被告が原告の退院の際にイクテロメーターによる測定を二回行っていること、退院時に黄疸についての注意を与えていること、退院時の原告の黄疸が目で見ても明瞭であったこと、退院当日に早くも第一期症状、翌一七日には第二期症状に相当する症状が発現していると思料されること、の各事実をも併せ考えれば、右被告本人尋問の結果は信用できず、むしろ、これらの各事実からすれば、原告退院時の黄疸の程度は、数値的には確定できないまでも、被告主張より高度であったと推認することが相当で、かつ、その頂値をすぎていたとまでは認め難いというべきである。

(二) さらに、原告の黄疸が最初に発現した時期についても、前示二3の事実及び被告が診療録の八月一三日の欄に特に「イクテロメーター(一)」と記載していることからすれば、同日には既に黄疸が発現していた疑いもあるといわなければならない。

4  前記③の原告退院時における被告の説明内容について検討するに、

(一)  被告本人尋問の結果中には、被告の主張3(二)及び(三)にほぼ符合する部分があり、証人小谷、同谷口の各証言中にもこれに添う部分があるが、

(1) 右は、道子、信一尋問の各結果とまったくくい違っていること、

(2) 特に重要な事実である、信一の立会いの点については、被告本人尋問の結果、証人小谷、同谷口の各証言のいずれによるも、信一がどのような経緯で被告医院の診察室に入り、被告とどのようなやりとりをしたか不明瞭で具体性に欠けること、

(3) 被告が主張するように、原告の黄疸が生理的黄疸の程度であり、イ値も増加していないのであれば、前示二6のように、原告の退院にあたってイクテロメーターによる測定を二回も行うことは不必要であると思料され、まして、道子のみならず信一までも診療室に入れて、詳細な説明をすることは不自然であるというべきこと、

(4) 八月一七日に、道子から、小谷、谷口両助産婦に原告が母乳を飲まないとの訴えがあったこと、及び、道子らがその時点で原告を小児科医で受診させなかったことは、道子及び信一尋問の各結果、証人小谷及び同谷口の各証言が一致しているところであるが、被告主張のように「ミルクを飲まなくなった場合にも小児科医で受診するように指示した」との事実関係を前提とする限り、このような道子の行動は、子を持つ親、特に既に長男を育てた経験のある(この事実は道子尋問の結果により認められる。)道子らの行動としては極めて不自然、不合理といわざるをえないこと、

等の事情に鑑みれば、右の被告本人尋問の結果はにわかには措信し難いものといわざるをえない。

(二) これに対し、道子尋問の結果中には、前示二6の事実に添う部分、信一尋問の結果中には、同人は道子の入院の荷物を搬出して、診察室の入口付近で入院費用を支払ったのみで、診察室には立入っていないとの部分があるところ、これらは相互に矛盾するところがないこと、道子尋問の結果中には「被告が黄疸の増強は白目を見て判断するようにと言った」との部分があるが、そこにいう白目が黄疸色を呈する事実(甲第五号証の一本文一一〇頁右中程参照)は医師でない者は通常知りえない事柄であること、信一が診察室に立入らなかった理由として述べる「診察室には立入るのがはばかられる」との部分も、被告医院が産婦人科であることからして、十分に理解できるものであるというべきこと等の諸事情、さらに前示1(二)(4)及び右(一)(4)の点をも考慮すれば、右道子及び信一尋問の各結果は十分に信用することができる。

(三) よって、被告の退院時の説明については、前示二6のとおりと認めることができる。

5  前記④の八月一七日の原告の状態について検討するに、

(一)  被告は、小谷助産婦が原告方を訪問した八月一七日夕刻には、原告に嗜眠状態や硬直症状はなかったと主張し、証人小谷の証言中にはこれに添う部分がある。しかしながら、右証言によると、原告が母乳を飲まなかった原因は、おしめに大量の排便があり、それが少し乾き気味の程度まで放置してあったためであり、おしめを取替えると原告は五〇シーシーのミルクを休みなしに一〇分位で飲みほした、というのであるが、前段の点は、既に長男を育てた経験のある母親の行動としては極めて不自然であるし、後段の点についても、同助産婦が一時間三〇分ほども原告方にいたこと(この事実は証人小谷も認めている。)からすると不自然であると思料され、右証言はにわかには信用できない。

(二)  これに対し、道子及び信一尋問の各結果は、内容において、いずれもごく自然であって、相互の矛盾もなく、小谷助産婦が原告にミルクを飲ませた状況等について具体的に述べられており、道子らが原告を直ちに日赤病院等で受診させなかった理由や、小谷助産婦が長時間原告方にいた理由についても合理的ということができ、原告退院時の被告の説明が前示のように不適切なものであったこととも矛盾しないと思料されるばかりでなく、甲第二号証の「八月一七日から哺乳力低下、啼泣弱々しくなり後弓反張呈し本日外来受診」との記載(一枚め裏下)とも合致すること等からして、右尋問の各結果は信用しうるというべきである。

(三) よって、前示二9のとおり、原告は八月一七日夕刻には、既に後弓反張と思われる症状を呈していたと認めることができる。

四黄疸及び核黄疸について

1  <証拠>によれば、黄疸及び核黄疸について以下の各事実を認めることができ、被告本人尋問の結果中これに反する部分は措信できず、他にこれに反する証拠はない。

(一)  黄疸とは、血中のビリルビンが増加するため、皮膚、粘膜、その他の組織が黄染する状態を指すが、新生児ではビリルビン産生が亢進していること、肝臓におけるビリルビンの処理が遅れること、腸内に排泄されたビリルビンが再吸収されること等の要因があって、ビリルビンが高値となりやすく、大部分の新生児が黄疸症状を呈することになる。

(二)  血清中のビリルビンは、大部分が赤血球の崩壊によりヘモグロビンから産生され、血中に移行する。これは不水溶性の間接ビリルビンで、ほとんどがアルブミンと結合し、一部は赤血球の膜と結合し、ごく一部は解離した状態で存在する。この間接ビリルビンは、肝臓に取り込まれて処理され、水溶性の直接ビリルビンとなって胆毛細管、胆道を経て、十二指腸に分泌される。

(三)  新生児の黄疸のほとんどは、いわゆる生理的黄疸で、何らの処理を必要とせず後遺症も残さずに消失していくものであるが、数的にはわずかとはいえ、重症黄疸となり、発見が遅れて適切な治療が行われなければ核黄疸にまで発展する病的黄疸がみられる。また、ひろくビリルビン値が異常に高くなる重症黄疸には、大別して直接ビリルビン性(例えば先天性胆管閉塞症)と間接ビリルビン性があり、後者はさらに、免疫学的機序による過剰溶血性のもの(新生児溶血性疾患)とそれ以外のものすべてを含む非溶血性のものとに分けられる。

(四)  新生児溶血性疾患は、母児の血液型が異なる場合に、児の血球が胎盤を通して母体に移行し、ここで母体の血液中に児の血球に対する抗体が産生され、これが再び胎盤を通して胎児の血液中に移行し、抗原抗体反応により児の血球が異常崩壊をおこす疾患で、母がRh陰性、児が同陽性の場合(Rh不適合)に生じることが最も多いとされる。これに対して、ABO不適合の場合は、抗A抗B抗体は自然抗体としても存在すること等の特殊事情があって、その発生機序等が複雑とされ、その発症頻度は全出生数の六〇〇分の一ないし一、三〇〇分の一とされるも大多数は軽症である。

(五)  非溶血性の間接ビリルビンによる重症黄疸の原因には種々のものがあるが、そのうちで生理的黄疸と同様に特別の原因なくして重症化するものを特発性高ビリルビン血症と称し、未熟児に最も多くみられる。その本体は不明であるが、生理的黄疸と同様に、新生児の生理的な肝機能未熟を基礎として、これにビ値を上昇させる諸因子が相加的ないし相乗的に作用して重症化するものと考えられている。

(六)  新生児溶血性疾患の場合、多くは生後二四時間内に黄疸が発現して、二日めから四日めにかけて急速に増強するとされ、生理的黄疸及び特発性高ビリルビン血症の場合には、その発現が遅れ、生後二ないし四日めに発現し四ないし六日めに頂値に達するとされているが、生後二ないし五日めにみられる黄疸でも、数的には圧倒的に生理的黄疸が多いとはいえ、症例としては、見逃されていたRhあるいはABO不適合による溶血性疾患の場合をはじめとして、その原因は多岐にわたるとされている。

(七)  核黄疸は、重症黄疸の際にビリルビン(特に遊離ビリルビンが関係するといわれる)が大脳基底核、海馬回、視床下部、小脳歯状核、脳幹部の神経核に沈着するために生じ、放置すると死亡するか、一命をとりとめても脳性マヒの後遺症を残すとされる疾患であり、統計的にみると、新生児溶血性疾患の場合、ビ値一八以下では発症例がなく、一九ないし二四で八パーセント、二五ないし二九で二三パーセント、三〇以上で七三パーセントという報告、非溶血性疾患の場合には、二二以下では発症例がなく、二二ないし二七で一九パーセント、三〇以上で三三パーセントという報告がある他、低血ビ値、例えば一二ないし一五でも三パーセントの発生があったという報告もある。

(八)  核黄疸の臨床症状については、プラーハがこれを時間の経過に従って第一期から第四期に分けており、第一期は、元気がなくなる、哺乳しなくなる、筋緊張の低下、等の症状を示す時期であり、第二期は、神経学的にはっきりした症状が発現する時期で、頸部の硬直、後弓反張(全身が弓なりにそりかえる状態)を呈する。第三期はこれらの症状が消退した時期を指す。

(九)  新生児重症黄疸の治療は、主として光線療法と交換輸血であり、光線療法は副作用の少ない優れた方法であるが、高度の黄疸例や核黄疸症状の発現している例では交換輸血が唯一無二の方法で、光線療法で代償しうるものではないとされている。

(一〇)  また、ビ値による新生児の黄疸の管理については、生後七二時間以降で成熟児の場合、ビ値九以下は観察、一〇ないし一九は黄疸の原因を探求するとともに光線療法、二〇以上は交換輸血とする文献、生後四日め(九六時間経過後)以降で、一五以下は無処置で翌日再診、一六ないし二四で光線療法、二五以上で交換輸血(但し、血液型不適合その他の黄疸増強因子のある場合は基準を下げる)とする文献がある。また、黄疸の管理のためイクテロメーター(介排式のもの)が用いられ、そのスクリーニングの基準はイ値3.5(ビ値12.3、高い場合には17.3の可能性がある。)とされているが、スクリーニングの目的は、採血してビ値を検査するか否かの判定であると認められ(甲第五号証の一、乙第四号証)、その基準以下でも黄疸を呈している場合には経過観察の必要があるというべきである。また、これを核黄疸症状との関係でみると、交換輸血の施行時期は、第一期と第二期の境目であり、この時点を捉えて交換輸血を施行すれば後遺症を残すことはないが、第一期を脱して第二期に入ってしまうと後遺症を残す可能性が生じる。

2  なお、被告は、核黄疸の第二期症状の間は交換輸血の適応時期である。また、間接ビ値二一は、同様の適応時期であると主張するが、

(一)  前者の点については、証人竹下の証言中には、おおむね「第二期症状が現われてから時間が経過して交換輸血を施行した場合でも、死の結果を回避し、後遺症を軽減するという意味で、それが無意味とはいえないが、後遺症を残さないという意味においては、交換輸血を施行すべき時期は、第一期と第二期の境目である」との趣旨を述べる部分があるところ、これについては、被告本人尋問の結果中にも「第二期症状が現われた場合にはすぐに交換輸血をするべきである」との部分があること、甲第五号証の二、第六号証、乙第二、第七号証が一致して、新生児重症黄疸の治療の目標が核黄疸の予防にある旨を指摘し、証人伊吹の証言中にも同旨の部分があること、特に乙第七号証には「核黄疸の早期症状が現れたら、ビ値のいかんに拘わらず交換輸血を行う」との指摘があること、証人竹下の証言によれば、同証人も伊吹医師も、原告を診察して、交換輸血をするには少し時期を失していると診断したこと、の各事実により十分に裏付けられているというべきであるから、これにより前示(一〇)のとおりの事実を認めることができる。

(二)  また、右の各事実からすれば、後者の点につき、ビ値により交換輸血の適応時期を判断するのは核黄疸症状の現われていない場合のことであると認められ、本件のように、既に核黄疸症状を呈していた場合には、単にビ値のみをもって交換輸血の適応時期をいうことは失当といわなければならない。

よって、被告の右主張は採用できない。

五被告の責任

1  請求原因3(一)(1)(診療契約の締結)の事実は当事者間に争いがないところ、一般に、分娩について診療契約を締結した産婦人科医は、出生後の新生児についても、少なくとも入院中はその健康状態を管理して、疾病の罹患やそれによる身体の障害を未然に防止するため必要な措置を講じ、また、退院を決定する場合にあっても、その時の新生児の健康状態を診察して、同様の見地から、退院を留保して経過を観察する、専門の医療機関に転医させる、退院させるとしても継続して経過を観察できるように配慮する等の適当な措置を講ずべき診療契約上の注意義務があるといわなければならない。

2  前示の事実関係及び黄疸等についての知見から、右注意義務を本件について具体的にみると、

(一) 我国においては、新生児の退院時期は生後約一週間とされることが多いことは公知の事実であるが、これは、前示四1(六)の事実からすれば、特に黄疸との関係において、生理的黄疸にしても新生児溶血性疾患にしてもほぼ黄疸の頂値をすぎる時期と一致しており、この時点で黄疸が頂値をすぎていれば、前示の一般的な黄疸の経過からして、重症黄疸から核黄疸に進行する可能性は乏しいと考えられるから、退院の判定時期として合理的理由があるということができる。従って、その反面として、それ以前、例えば本件のように生後四日めの時点において退院の可否の判定をする場合には、生理的黄疸であってもその頂値に達していない場合がありうるところで、特発性高ビリルビン血症による重症黄疸に至る可能性も否定できないばかりでなく、前示四1(六)のとおり、生後五日めごろまでは見逃されていた溶血性疾患による黄疸の可能性もありうるとされているのであるから、医師としては、その判定に当って、黄疸症状には十分に注意し慎重に判断すべき、より加重された注意義務があるというべきである。

(二)  本件にあっては、前示のように、八月一六日の退院時には、原告はなお相当程度の黄疸症状を呈しており、それが頂値をすぎていたとも認め難いのであるから、医師としては、仮に、原告の黄疸が採血により正確なビ値を測定したり黄疸の原因について探求する必要がある程度には至っていなかったとしても、なお、入院を継続させるか適当な医療機関に転医させて経過観察の処置をとること、あるいは、退院させるにしても、翌日の再診もしくは異常症状が現われた際に直ちに診療を受けられる体制をとるとともに母親その他の保護者に対して適切な指示を与えて黄疸の経過観察に遺漏のないように配慮すること、のいずれかをなすべき注意義務があったというべきである。

3  そこで、被告が右注意義務を尽したか否かについて検討するに、

(一) 原告の退院に当って、被告がその翌日である八月一七日以降における原告の診療を他の医師に依頼する等の措置を講じていないことは、前示二6のとおりであり、また、前示二10の事実からすれば、被告方助産婦もこれに代りうるものでなかったというべきこと、

(二) 被告が、退院に当って道子に与えた注意は、前示二6のとおり、要するに「黄疸の増強を白目で判断して日赤病院に行くように」というにすぎず、そこにいう黄疸の程度を白目で判断することが医師でない者にとっては無理な判断方法であることは、被告自身が認めている(被告本人尋問の結果)ところであって、右のような注意が、原告の保護者に対する注意としては明らかに不適切であったこと、

の各事情からして、被告が前示の注意義務を尽したとは到底認めることができず、被告には診療契約上の債務不履行があるといわなければならない。

4  なお、被告は、昭和五五年八月当時の医療水準の点を争うが、甲第五号証の二(これ自体は昭和五五年一二月刊行の文献である。)によれば、右注意義務の認定の根拠となった、①生後三ないし五日めに発現する黄疸でも、ABO不適合による溶血性疾患がありうること、②生後四日めでビ値一〇以下でも経過観察を要するとされていること、の二点については、その引用の元となった文献が、①については昭和四八年、②については昭和五〇年のものであること、また、右文献の内容からしても、同文献は先端的な研究論文ではなく、およそ昭和五〇年以前に発表された各種研究の成果に基づき、それをまとめた産婦人科医向けの解説書的なものにすぎないこと、特に右②の点については、本文中に「最近の支配的な考え方の代表的なもの」との解説がある(七二頁本文右上)こと等の事実が認められ、これらからすれば、右文献は、昭和五五年八月当時の産婦人科の医療の水準を十分に示していると認めることができるから、被告の右主張は理由がない。

5  また、仮に、被告が右注意義務を尽していたとすれば、原告が核黄疸症状を呈した時点(遅くとも後弓反張と思料される症状を呈した八月一七日夕刻)において、適切な医療機関で原告を受診させ、早期に交換輸血等の治療を受けさせることが十分期待でき、それによって原告が脳性マヒの後遺症を残すことは避けられたであろうということができるから、右債務不履行と原告の損害の間の因果関係も肯定することができる。

6  被告は、被告医院助産婦が八月一七日に大津日赤病院での受診を勧めたにもかかわらず、道子らはこれを拒否して原告を放置したものであると主張するので検討するに、

(一) 前示二10のとおり、被告医院助産婦が日赤病院受診を勧めた事実はこれを認めることができず、従って、これを前提とする被告の右主張は失当といわざるをえない。

(二)  しかしながら、他方、親は子の監護養育のため最善を尽すべき義務があるというべきであって、このことからすれば、道子らが、原告が後弓反張という特異な症状を呈していたにもかかわらず、原告に直ちに医師の診察を受けさせなかったことは、親としていささか適切を欠く行動であったといわなければならず、その点において原告親権者らにも過失があったといわなければならない。

(三) もっとも、前示二6及び二10の各事実に照らせば、道子らが原告を早期に病院等で受診させなかった原因は、もっぱら、被告が道子に原告の黄疸に関して不適切な注意しか与えなかったこと、及び、被告医院助産婦が原告の症状の重大さに気付かず、直ちに医師の診察を受けることを勧めなかったことによるものということができるから、これら諸事情に鑑みれば原告親権者らの過失割合は二割と認めるのが相当である。

六損害

1  <証拠>によれば、以下の各事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(一)  原告は昭和五五年九月八日、大津日赤病院を退院したが、アテトーゼ型脳性マヒの後遺症を残し、同月より大津市民病院理学診療科小児部門に通院してボイター法による訓練を受けている。通院回数は、当初は可能な限り毎日、その後回数は漸減して、昭和六〇年八月現在では週一回程度となったが、同法による訓練を家庭において毎日行う必要がある。

(二)  また、右とは別に、脳性マヒ、てんかんの疑いで昭和五六年二月一七日から第一びわこ学園小児科に通院して治療を受け、昭和五九年七月二七日現在、脳性マヒは歩行可能であるが異常歩行、てんかんは昭和五七年一一月以後発作なし、憤怒けいれんは一時強い時もあったが改善してきている、貧血は治癒、との症状であり、てんかん及び憤怒けいれんに対して投薬治療を続行中(投薬量は漸減)である。

(三)  昭和六〇年八月現在(四才)の原告の行動発達の程度は、適応行動の面では三六か月相当(五個の積木で門を作る、十字を書く)、大筋運動行動の面は二四か月相当(走る、ボールを蹴る)ないし三六か月相当(片足で立つ、その場で跳躍する)、小筋運動行動の面では一八か月相当(三個の積木で塔を作る、頁を二、三枚同時にめくる)ないし二四か月相当(六個の積木で塔を作る、頁を一枚ずつめくる)、言語行動の面及び個人・社会的行動の面では六〇か月相当(但し言語は講音障害がある)であり、歩くことは、不安定で、生活の中では自立しているも大勢の中には入りたがらない、往復二キロメートルは歩けるが時間が同年齢の子の倍位かかる、走ることは、平衡を保つために両手を上げて小走りができるが両手を振って足と手の協調はとれず、つまずいて転倒することが多い、階段は昇れるが降りる時は手すりを持つか尻をつく、ブランコは自分で反動をつけてこぐことはできない、三輪車はまたいで乗れるがペダルでこぐことはできない、すべり台は一人で階段を昇ってすべれるが、すべり板を反対から昇ることは半分ぐらいまで可能、ジャングルジムは二、三段まででそれ以上は恐がる、ケンケンはその場で二回で前進はできない、両足とびは一回できるが続かない、両足の着地が同時にできず不安定、スキップは全くできない、との状態である。これらを通じて、不随意的な運動があって、自分の意図する運動を円滑にできないこと、及び、恐怖心が強く、不安定な姿勢になったり緊張すると全身が緊張して硬くなってしまうという脳性マヒの特徴がみられる。

(四)  原告の将来については、原告の能力の可能性、努力あるいは学習による改善等の不確定な要素があって最終的な到達段階は予測し難いが、大きな関節の動きはある程度できるようになるとしても、巧緻性の面では障害が継続し、例えば、実用性のある文字を書くことができるまでに達することは期待できない状態にある。

2  以上の原告の現症状からすると、原告の言語面、社会的行動等の面には特に大きな障害がないこと、及び右の将来における改善可能性を最大限考慮しても、原告の将来における労働能力喪失率は、少なくとも五〇パーセントを下回るものではないというべきである。

また、原告は、一九才から六七才に至る四八年間稼働が可能であるというべきであるから、将来の得べかりし利益について、昭和五五年の賃金センサス企業規模計、産業計、男子労働者学歴計の平均年間給与額、三四〇万八、八〇〇円を基礎としてこれを計算すると、

3,408,800(円)×16.419×0.5

=27,984,543(円)

(16.419……〇才の将来の逸失利益にかかる新ホフマン係数)

3  また、右のような原告の後遺症に対する慰謝料は、六〇〇万円をもって相当というべきである。

4 よって、原告の損害は、合計三、三九八万四、五四三円となるところ、前示五6のとおりの原告親権者の過失割合を計算すると、原告が被告に請求しうる損害賠償金額は、二、七一八万七、六三四円となる。

33,984,543(円)×(1−0.2)

=27,187,634(円)

七結論

以上によれば、原告の請求は、債務不履行に基づき金二、七一八万七、六三四円の損害賠償金及び、これに対する本訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和五七年四月二二日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行宣言につき同法一九六条一項を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官西池季彦 裁判官新井慶有 裁判官松本清隆は転任のため署名押印できない。裁判長裁判官西池季彦)

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